今回は『今はもう間違いとなった常識もあるのに、その常識と違っていると叩かれます』の関連的な内容です。
また、本サイトの『実践編)先人の教え「金は天下の回りもの」と「情けは人のためならず」に学ぶ』の内容にもカブります。
特に株式会社スタートトゥデイの前澤社長の話がたくさん出てきますが、別に大ファンだというわけではありません。
以下、よろしくお願い致します。
目次
気付いたのは前澤氏へのツイートから
この最近、売れっ子の女優さんとお付き合いをしていることで有名になった株式会社スタートトゥデイの前澤社長ですが。
前からツイッターで叩かれることもあったようですが、それがエスカレートしていました。
やっぱり相手が人気女優さんですから、それが許せないファンも混じっているのかと思われますけども。
ただ、それにしてもちょっと叩かれ過ぎではないかなぁーと。
それも若い人が古臭いことを書いて叩いているのが気になりました。
いや、ある程度の年齢の人が若者のふりをしているのかもしれないですし、実はそういう人が大半だったとするならば、日本も安泰なんですけどね。
その理由については本サイトの『実践編)先人の教え「金は天下の回りもの」と「情けは人のためならず」に学ぶ』でも書きましたが、該当部分を以下に抜粋致します。
皆、わかってないけど、あの人は天才やからねぇー。何の天才かと言うと「嗜好品を売る天才」です。それ故に「大量生産大量消費時代の経営者の常識では考えられない発想だから叩かれる」という面もあるでしょうね。
~中略~
嗜好品とは「必要ではないけどあると嬉しいもの」なんですよね。今は生活必需品かそれに近い道具のような物は既に満たされています。服もそう。その上で「欲しい」と思って買ってもらうにはどうしたら良いのか、という話になっています。
古代ローマ時代の詩人ユウェナリスが詩篇中で使用した表現に「パンとサーカス(見世物と訳されている場合もある)」というものがあります。
日本でも近年「ものより思い出」とか「モノ消費からコト消費へ」とか言われていますけど、これって実はユウェナリスの二番煎じなんですよね(ちと失礼ですが)。
この「パンとサーカス」を拡大解釈すると、パンとは生きるため=生活するために必要なものを表わしており、サーカスは生活に必要のない娯楽等を表わします。
生活には必ずしも要らない、でも幸せに生きるためには欲しいもの、それが「嗜好品」です。
「嗜好品」を提供する際の誠実さとは?
つまり、良い「嗜好品」とは何なのかと言いますと、買ったお客さんを「より幸せにするもの」なんですよね。
自身が不幸ぐるぐる巻きで過酷なノルマを課せられて日々辛い思いをして働いている状態で
「この商品は良いですよー。きれいになって幸せになれますよー」
って「嘘」を言われて、その人とその商品を信じられますか?
その人自らがその商品を使って幸せだと「本当」に心から思っていてこれを言われた方が、そのお客さんにとって「誠実」な状態ではないですか?
これが今までの「日用品」と決定的に違うところなんですよね。
「日用品」とは、生活に必要な食糧や道具、あるいはガスや電気などというインフラを指します。
これらのものがない、または足りていない時代には、自らの時間を削って労働力を提供し、これらの充足に応えることは「誠実」なことでした。
しかも昔になればなるほど、工作機械などのテクノロジーが発達していません。
そういう時代であればあるほど、その労働者自身の体力や忍耐力などがありがたいと思われる割合が大きくなります。
「日用品」をより進化させる方は限界
従来の日用品をより良くする方向が完全に間違っている、と言うつもりはありません。
ただし、その方向で成功する人は極めて優秀な人に限られますので、これ以上より力を入れていく方向はどうなのかなと。
極めて優秀ではないほとんどの人のお仕事はより評価が厳しく苛酷になり、さらに報酬も少なくなってより貧しくなっていきますので。
何故ならば、日用品とは「より良い商品をより安く、より多くの人に(足りなくて不自由な思いをする人を減らすため)提供する」というものだからです。
この「より良い商品をより安く」の中に労働力も含まれてしまい、より良い労働力が提供できるほどの優秀さを持ち合わせていない労働者は全員「より安く」の方に入ってしまうのです。
これ、怖くないですか?
それに対して「嗜好品」は「それなりに価値あるものを、価値のわかる一部の人へ提供する」というものです。
売るために安くする努力はあまり必要ではないのですが、逆にその価値をより大きくすることやよりわかってもらう方向での努力が必要となります。
価値をより大きくすることやよりわかってもらうこと、ここら辺が今の日本人に欠けている能力ではないかと私は思います。
その能力があまりに欠けてしまっているので、それが重要であるということさえも気付くことができない、だから前澤氏を「常識外れだ」と思って叩く人が多い……のではないかと私は考えたのです。
「日用品」から「嗜好品」への対応
では、ここら辺で結論です。
タイトルの「教育の未対応を嘆く」ですが、私はこの「嗜好品」への未対応を嘆いています。
何も考えず、というよりも考える時間すら惜しんで根性出して働くことが「誠実」であった時代は、もはや遠い昔の話です。
まずは「お客さんの立場で物ごとを考える」ことを起点とせねばなりません。
ものがないまたは足りない時代は、その必要がありませんでした。充足させれば良いのですから。
そしてお客さんの立場にたって、よりその商品の価値を大きくしそれをよりわかりやすくして深く理解してもらえるようにすること。
それが正しい「嗜好品」を提供する方法です。
日本には良いものがたくさんありますが、残念なことに日本人自身がその価値に気付いていない、ということも多いのです。
最もわかりやすい例を一つ挙げると、浮世絵です。
当時の日本人自身にその価値がわからなかったため大半は失われましたが、運良く流出先の海外で評価してもらった作品については現存させることができました。
優れた浮世絵が失われることは日本の富の喪失でもありますが、人類史上からの喪失でもあります。
この悲劇を繰り返さないためにも、また現在辛い思いをして働いている人々のためにも、教育での対応が必要ではないかと私は思うのです。
いや、対応が必要なのは教育だけの話ではないですけども。